春山公を訪ねて宇和島へ(6/7)


天赦園(奥の建物が春雨亭)




天赦園の花菖蒲


苔の中の飛び石

  プチ観光を兼ねて、家族で宇和島まで日帰りドライブで行って参りました。お目当ては、宇和島藩7代藩主・伊達宗紀(むねただ)が隠居所として整備した日本庭園「天赦園」(国名勝)の見学です。この時季は花菖蒲がキレイですね。また、庭園にはたくさんの石も配され、やはり花崗岩には目が行きます(笑)。
 ところで、宗紀といえば、行き詰った宇和島藩の財政を立て直し、同藩を幕末雄藩に押し上げる基礎を築いた明君で知られます。彼の功なくして、幕末四賢侯の一人である、8代藩主・伊達宗城(むねなり)は存在しえませんでした。その宗紀は、春山の雅号で亡くなる98歳(明治22年)まで書を嗜むなど、風流人でもありました。
 明治20(1887)年7月23日の海南新聞に、今治人の菅周菴(かんしゅうあん)が門人の童子を伴って宇和島の春山公を訪ねた記事があります。周菴は、嘉永2(1849)年に伊予国で最初に天然痘の予防接種である種痘=iしゅとう)を行った今治藩の元藩医で、書・和歌・漢詩の才にも秀でていました(天然痘の疱瘡【ほうそう】にかかり、伊達政宗は幼いころに右目を失明する)。一方、童子の名前は深見竹堂といい、9歳とは思えない書の腕前というので、周菴が春山公に面会を願ったというものです。もちろん、その作品を見て面会はかない、嘆賞したとのこと。この竹堂は、やがて成長して、深見寅之助という、今治の政財界に欠かせない実業家・政治家として活躍することになります。深見家は、幕末に今治藩最大の入浜塩田古江浜≠伯方島に築いた御用商人で、その功により塩田の石炭問屋となって、多角経営で財をなしていきます。
 現在、天赦園には接待館の書院式茶室「潜渕館」(せんえんかん)と書屋の「春雨亭」(はるさめてい)が残され、今治人にとっては、周菴と竹堂の面影を偲ぶことができます。また、伯方島の寺や神社には、今も竹堂作の書が額縁に表装されて飾られているとか(まさしく伝説の書です!)。これまで不勉強であった小生は、宇和島城跡や伊達博物館を観光することはあっても、今治地方の先哲ゆかりの天赦園は見過ごしていました。今後は庭石についても勉強し、大島石の用途拡大に努めないといけませんね。      
  


広報担当 大成経凡