幻の鵜島架橋ルートって!?(4/11)


愛媛新聞記事より




カレイ山から見た鵜島(4/11)

  この日、カレイ山展望台からの眺望をガイドした際、観光客から訊かれた質問が「能島の後方にある島は無人島ですか!?」でした。鵜島は、展望台から見ると、確かに集落が隠れて無人島に見えますが、村上水軍博物館3Fの展望室からは集落がよく見えます。先般、ここでサイクリング大会を実施しましたが、今後とも何らかの仕掛けが必要で、島の歴史を発信していくことも大切な取り組みだろうと思います。
  先日、昭和47(1972)年2月11日付の愛媛新聞に、「瀬戸内海大橋ルート/取り残される鵜島」と題した記事があるのを発見。内容を要約すると、しまなみ海道のルート設定にあたっては、当時、愛媛県案と建設省案の二つのルートが存在したようです。伯方島と大島を結ぶルートは、現在の見近島に橋脚を建てる案は建設省のもので、幻に終わった愛媛県案は鵜島と能島に橋脚が建つという案でした。さすがに、国指定史跡の能島城跡に橋脚を建てるという案は文化庁が許さなかったようで、建設省案が有力視されるなか、鵜島住民の心は揺れていたようです。
  当時の鵜島(宮窪町)の人口は34世帯・160人で、島にこれという産業がないなか、若者はどんどんと島を離れていったようです。橋が架かれば、小さな島に活気が取り戻せるという期待は大きかったようです。鵜島架橋に可能性があったころは、実際に技術者が調査の杭打ちで来島し、土地ブローカーも内偵で来島するなど、島民は喜びに湧いています。しかし、見近島を通すルートが有力視されると、「鵜島の面積の一割にも満たない無人島の方を優遇するなんて」と悔しがる声もきかれたとか。
  今日では、しまなみ海道の島々の多くが、架橋ありきでも若者の島外流出を防げない苦境が続いています。今春から、吉海中学と宮窪中学を統合して大島中学校が、上浦中学と大三島中学を統合して大三島中学校が新たに誕生することになりました。とはいえ、統合された中学校も、今治市陸地部の中学校に比べれば小規模校の部類といえます。観光で外貨を稼ぐ仕組みづくりや、地場産業の新たな振興策など、待ったなしの地域課題に当会としても取り組まないといけませんね。    


広報担当 大成経凡