越智杜氏の古写真、見つかる(^O^)/(9/4)


現代の名工・田窪幸次郎さん




三芳菊酒造では麹師だった田窪さん(左)


県下最年少の責任杜氏に就任(中央/昭和33年頃撮影か)


床もみ作業(右/昭和40年代頃)

  ずっと以前に、同ホームページ記事にて、海南寺(宮窪町宮窪)の酒呑み坊さん≠ノついてご紹介をさせて頂きました。この酒呑み坊さん(日切地蔵)が、今秋10月末刊行予定の「いまばり博士」公式ガイドブック改訂版増補(今治商議所)の民話・伝説の項目で取り上げられます。その理由は、これが越智杜氏(おちとうじ)のルーツの一つになっているからです。また、同じく今秋発行予定の今治法人会広報誌「法人いまばり」の歴史コラム今治歴史散歩=i同会HP参照)でも、今治地方の酒造のルーツを紹介する中で掲載予定です。どちらの執筆も、小生が担当することになりました(>_<)。
  越智郡島嶼部の人々は、すでに江戸時代から浜子(塩田)・杜氏(酒造)などの出稼ぎで生計をたてていたことが分かっています。杜氏にいたっては、大正11(1922)年刊行の『酒造乃心得』によれば、越智郡醸造業組合(後の越智郡杜氏組合)の杜氏数は1,308名で、これは全国48の組合の中で6番目の規模だったようです。彼らは醸造技能に優れたことで、県内はもとより、香川・徳島・九州方面で活躍しました(冬季の出稼ぎ)。
 特に、越智杜氏は宮窪出身者が多かったことで宮窪杜氏≠ニ呼ばれることもあります。このため、越智杜氏の講習会窓口および組合は、長く宮窪町役場の産業課におかれていました。その越智郡杜氏組合も平成15(2003)年に解散となり、現在、現役で生粋の越智杜氏と呼べるのは栄光酒造梶i松山市溝辺町)の岡田彦男さん(吉海町泊出身)くらいでしょうか。昭和30年代をピークに越智杜氏の数は減少し、これに代わって宮窪周辺では石材業・造船業・柑橘業がこれに代わる生業として伸長を見せています。
 今回のスクープは、そんな越智杜氏の作業風景をおさめた古写真が見つかったことです。所持していたのは、伯方町木浦在住(出身)の田窪幸次郎さん(昭和7年生まれ)です。幸次郎さんは、平成10(1998)年秋に四国の杜氏としては初めて現代の名工≠ノ選ばれた方で、同16(2004)年秋には黄綬褒章≠受章しています。現在は一線を退き、雪雀酒造梶i松山市柳原)の顧問というお立場です。昭和25(1950)年から酒造業とかかわり、今治市菊間町の水田酒造(蔵人)・徳島県池田町の三芳菊酒造(同28年〜/麹師)・新居浜市の東陽酒造(同32年〜/酒母廻り)などでキャリアを積んだ後、昭和33(1958)年から雪雀酒造で責任杜氏を務めています。26歳で責任杜氏に抜擢されるというのは、なかなかのやり手だったことがうかがえます。
 古写真は、三芳菊酒造&雪雀酒造時代のものをお持ちでした。機械化が進む前の白黒写真を探していた小生にとりましては、希望の資料が見つかったことになります。越智杜氏の足跡をとらえようとすれば、これを物語る資料は市外・県外の蔵元にも残されているはずですが、その多くは廃業し、杜氏経験者の多くも亡くなっています。今回見つかった古写真は、地元の歴史民俗資料としても取り扱わないといけませんね。取材および写真提供を頂きました田窪様、本当にありがとうございました。今後は、越智杜氏の歴史や魅力を語る語り部≠ニしての活躍にも期待致しております。   


広報担当 大成経凡