四阪島の大煙突解体に思う(2/16)


ありし日の四阪島製錬所(絵葉書/小野榎之本家所蔵)




住友四阪島小学校(絵葉書/小野榎之本家所蔵)


四阪島の社宅(絵葉書/小野榎之本家所蔵)


四阪島のカラミ煉瓦階段と少女(故近藤福太郎氏撮影)

  本日の愛媛新聞に四阪島大煙突解体(記事@記事A)の記事が掲載されていました。当NPO会員の藤森光弘氏のコメントも掲載されるなど、宮窪町の漁業関係者にはホットな話題として、昨年秋頃から噂されていました。GPSに頼らない時代は、漁をする際の目印にもなっていたようですが、老朽化による倒壊を考慮し、管理する住友金属鉱山兜ハ子事業所は今春4月中旬から解体することに決めました。同煙突は大正13(1924)年に竣工した鉄筋コンクリート製で、高さは約64mもあります(※いまばり博士検定に竣工年が出題される)。
  四阪島は今治市の行政区に属し、それ以前は越智郡宮窪町、さらに遡ると友浦村でした。このため、かつて同島にあった小・中学校は宮窪町立校(当初は住友私立)でしたので、宮窪住民の四阪島に寄せる思いは特別なものがあります。カレイ山展望公園でガイドをする際は、つい四阪島の方向を指さし、煙突を目印に解説を加えたくなります。
 四阪島では、今も住友金属鉱山の亜鉛リサイクル工場が稼働しています。銅製錬が昭和51(1976)年に停止した後は、島民もこの島を去ることになり、同社の従業員は専用船で新居浜港から通うようになりました。島には現在も、生活の痕跡が近代化遺産として残され、その調査等で私も現地を2度訪れたことがあります。とりわけ、住友家の別荘として建てられた日暮別邸(明治39年5月)には感動しました。これと肩を並べる愛媛の近代洋館建築は、旧久松家別荘の萬翠荘(大正11年11月/国重文)しかないでしょう。
 小学校の旧校舎には、木製の机椅子がそのまま残され、黒板には最後の児童の寄せ書きが記されていました。この机椅子・黒板については、村上水軍博物館のオープン(平成16年10月。当初は宮窪町立)に合わせて島から持ち出し、同館2階に設置されています。また、同館正面入口前にあるカラミ煉瓦は、かつて四阪島において製造されたものです。カラミとは、銅鉱石から銅を製錬する工程で生まれる残りカスのことをいいます。今風にいえば産業廃棄物ですが、こうしたものを煉瓦にして建材に使用していた時期がありました。
 四阪島は、新居浜市の話題で語られがちですが、今治市との関係も多分にあります。製錬過程で溶剤に用いられたのが石灰石や珪石ですが、四阪島製錬所では今治市の小大下島や上島町の弓削島の石灰石を使用していました。また、大煙突は四阪島煙害克服の象徴的存在として語られてきました。『宮窪町誌』によると、粗銅を初めて産出した明治37(1904)年12月に早くも宮窪村友浦から麦の芽が立ち枯れた≠ニいう苦情があり、翌38年春には越智郡・周桑郡一帯の村々で同様の報告や抗議が相次いだようです。その後、被害は拡大し抗議は激しさを増しましたが、住友側の努力でしだいに煙害は克服され、昭和14(1939)年12月に完全解決をみます。この克服過程で、住友側から自治体に対して農林業・観光振興目的の補償金等が支払われ、旧制組合立越智中学校(現、今治南高校)の開校や波止浜町による小島の芸予要塞払下げ等の実現をみたという実績も見逃せません。
 当NPO監事の藤本義信氏が、解体を前に海上遊覧四阪島ツアーをやろうかと意気込んでおります(上陸はしません)。定員少数の自主企画ツアーとなりますので、ご興味のある方は同氏のブログ「日々の出来事」から目を離さないように!   


広報担当 大成経凡