しまなみ珍道中甘崎城跡≠ゆく(5/6)


海が割れた!(後方は多々羅大橋)




こんなん採れました(足元はアマモ)


甘崎城跡の石垣(算木積)


甘崎城跡の石垣(ビューポイント)

  GW最終日夕方、石文化体験ツアーのガイドを終えた藤本義信監事とともに、大三島の甘崎城跡(県指定史跡/あまざきじょう)を訪ねました。この城跡は、ふだんは沖合にある無人島(島名は古城島)のため、渡船をチャーターしないと上陸できません。それがこの日に限っては、大潮の中でも特に干潮水面が下がるため、海が割れる£ソ現象が見られるというのです。過去にも、私はその陸繋砂州(りくけいさす)を伝って上陸を果たしたことがありますが、今回は潮干狩りに挑戦しようと、貝掘り道具を持参。しかし、城跡の解説に興じてしまい、1時間も滞在せずに、潮が満ち始めたところで退却となりました(>_<)。食通で知られる人気ブロガーの藤本監事(○○のおっさん)は、ちゃっかりタイラギに似た貝を3個ゲットしていました。
  靴を濡らさずに渡れる機会は、年間通じてそんなに多くなく、これまで城郭マニアの中には、渡船で上陸したものも数多くいます。この日は、ある歴史ツアーの一行が、海底から現れる石垣を見ようと、海が割れる時間帯に合わせてやって来ていました。実は3年近く前、私はクラブツーリズムのツアー客をここでガイドしたことがあり、歴史愛好家には事あるごとに甘崎城跡をPRしています。そんな影響もあってか、だんだんと知名度が上がって参りました(^O^)/。ご当地検定の『いまばり博士』テキスト(今治商工会議所発行)にも、甘崎城跡の石垣写真は掲載しています。しかし、地元の説明看板には日本最古の水軍城=i白村江の戦い頃に築造?)として価値をPR(>_<)。残された石垣が、織豊〜近世初期の築造年代を示すことは、ちょっと城をカジッタ人にならすぐ分かります。文献上では、戦国時代に能島海賊衆の今岡氏、戦国末期には来島海賊衆の村上河内守吉継の拠点として登場します(岩礁ピットは、戦国期のものか)。
  しまなみ海道の開通を機に、沿線の村上水軍時代の歴史文化に光を当てようと、愛媛県教育委員会が「しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査事業」を実施(平成12・13年度)。甘崎城跡では、縄張図の計測・丘陵平坦部の試掘(礎石発見)・海底の遺物採集(瓦片・器片)などが行われ、初めて考古学的調査のメスが入りました。詳細は、その報告書(平成14年3月発行)の埋蔵文化財編≠ノ掲載され、考古学的には豊臣秀吉の朝鮮出兵時にまで石垣の築造が遡る可能性があるとの見解でした。残された石垣の一部には、角石に算木積みの技法が見られ、きっちりと加工した石を用いていません。それ以外の石も、海岸に転がっているような自然石を野面(のづら)で積んでおり、それはまさに今治城の石垣技法とよく似ています。
  私見としましては、今治城築城段階に藤堂高虎が大規模な改修を加えたと推察致しております。そのことは、伊勢・伊賀へ転封後の藤堂家が編纂した『高山公実録』に詳しく、「もとは来島海賊衆の城であったが、藤堂が今治地方を領するにあたって、安芸の福島正則を牽制するために改修を加えた」との内容が記されます。高虎は、この任務を家臣の須知出羽守に命じており、総郭(そうぐるわ)で四方を石塁に囲まれていたとのこと(島の周囲を石塁が取り囲む)。また、【須知家譜】によれば、一説に徳川家康の命によってこの海城は大幅な改修が加えられたようです。同じく高虎の事績をまとめた『公室年譜略』には、伊予領有時代に築いた城郭として甘崎城の図面が掲載されています。
  では、この城郭はいつまで存続したのか。豊臣家が滅亡する大坂の陣が一つの節目だろうと思いますが、藤堂高吉(高虎の養子)が今治城を去る寛永12(1635)年までは維持されていたものと推察できます。元禄4(1691)年に、この沖をオランダ商館医師のケンぺルが航行した際は(鼻栗瀬戸を抜けて差しかかる)、海中より石塁が立ち上がる光景に驚いています。前述の図面によれば、石垣の高さは3間半(約6〜7b)あったようですから、なるほど≠、なずけます。しかし、現在の石垣遺構は、高い箇所でも1間あるかないか。基底部の石列しか残っていない箇所は、すべて取り除くことをためらったかの印象を受けます。意図的に持ち去られているのです。
  もともとあった城郭の威容は、調査成果からある程度想像がつきますが、それこそ想像力をたくましくしないと、一般観光客には魅力が見えてきません。持ち去ったのは、おそらく上浦地域の島民で、時代が下った江戸後期か。ちょうどその時期、上浦では大規模な新田・塩田開発が行われており(井口塩田は嘉永3/1850年築造)、遠浅の海浜を堰きとめるための堤防石垣が必要とされました。その多量の石を賄うため、不要となっていた古城の石垣再利用を思い立ったのでは…。実際、地元の郷土資料などを見ていると、そうした伝承が残されているのです。石垣の多くは失われましたが、今でも海底には城郭施設の瓦片が多数散乱しています。貝掘りを楽しむよりも、私はどちらかというと年代鑑定が可能な紋様入りの瓦片探しの方が興味をそそられます。しかし、指定史跡から勝手に遺物を持ち去ってはいけませんので、みなさんご注意下さいね(^^ゞ   


広報担当 大成経凡