能島城跡の発掘調査現地説明会に参加して(2/19)


三之丸跡の解説の様子




東南出丸の柱穴跡


三之丸の礎石跡(礎石の場所に杭のサンプル)


鍛冶遺構


来島海峡に臨む大浜灯台(昭和初年の絵葉書より)

  今年度も、寒い時季の現地説明会となりました。2日前の愛媛新聞記事1面で紹介されたこともあり、申し込み殺到。能島は無人島ということで、説明会への参加希望者は、今治市教育委員会が手配した船に乗り込む必要があります。今回の渡船は、宮窪漁協の潮流体験船で、定員は40名。当初は、午前中に3便に分けて実施する予定が、午後からも臨時の第4便をだすことになり、参加者は120名をはるかにオーバー。人気・関心の高さがうかがえました。県外(名古屋市ほか)の城郭愛好家も、どこで情報を聴きつけたか、徒党を組んで馳せ参じておりました。
 @東南出丸に、掘立柱建物があった!
  昨年度の調査成果の1つが、東南出丸跡で見つかった“地鎮め遺構”(じしずめいこう/地鎮祭の痕跡か)ですが、それより南側で掘立柱建物跡2棟が発見されました。大きいものは2間×4間の大きさで(1間=6尺5寸=約2m)、燧灘を望む位置に建っていたと考えられます。現在、この建物跡の中央にサクラの木があり、これを植えた担当職員がこっそり懺悔の念を、筆者に耳打ちしたしだいです。あの当時は、まさか地中に遺跡が眠っていようとは想像もできなかったようです。
 A三之丸に、礎石建物跡があった!
  三之丸跡では、建物の基礎にあたる礎石の列と柱穴跡を発見。建物は4間×2間の大きさで、外側で半間(約1m)張り出した庇(ひさし)の礎石も見つかりました。この建物は、船折瀬戸(航路)を望む位置に建っていたことになります。石列の一部から備前焼の大甕(おおがめ)の破片が多数出土し、最も新しいもので16世紀前半頃と考えられるので、建物の築造年代はそれ以降となります。瓦片は見つからず、礎石周囲の斜面手前では土留めの石積み遺構が見つかりました。
  さらに三之丸跡では、鞴(ふいご)の羽口(送風管)や鉄滓(てっさい)・焼土片などの
 鍛冶(かじ)遺構も見つかりました。
 B持論に移らせて頂きます!
  
筆者は1年余り、内航船員の甲板当直部員として日本列島沿岸を航海しました。海(航路)から陸を見つめると、針路変更の要所や港湾入口に灯台があり、これを目印として安全な航海を行うことができます。そういう視点で海城をみると、海上交通の要所に立地し、航路をにらむような存在感があります。
 能島城の場合は、燧灘と斎灘を結ぶ、海のバイパス(船折瀬戸航路)のプラットホーム的な印象を受け、海上交通管制や迎賓館となるべき“地の利”を感じます。三之丸の礎石建物は、灯台官舎(吏員退息所)の匂いがプンプン漂い、鍛冶遺構は生活用具や船具の鍛冶場施設だったと勝手に想像しています。定住の可能性が指摘されましたが、あくまで当直業務レベルの生活だったのでは。本拠はあくまで対岸の宮窪集落であり、城主はそちらに定住していたものと。能島城跡の発掘調査は、能島・鯛崎島だけで終わらず、追加事業として対岸の調査にも期待を寄せるしだいです。


広報担当 大成経凡