デンマークと今治(宮窪)A


久留島武彦(デンマークで撮影)




アンデルセン銅像(オーデンセ)


アンデルセンの墓(コペンハーゲン)


アンデルセン生家(オーデンセ)


童話祭でゲリルド氏と記念撮影

【掲載古写真2点は、久留島記念館所蔵】

 能島城主(能島村上氏)の末裔は、江戸時代以降は毛利氏の船手組頭という役職につき、現在の山口県周防大島に移住します。一方、来島城主(来島村上氏)の末裔は、豊後森藩主となり、現在の大分県玖珠町に移住します。
 大分へ移った来島氏は、しばらくして「久留島」に改姓し、幕末明治維新期まで藩主でした。最後の藩主・久留島通靖の孫として明治7(1874)年に誕生した久留島武彦は、わが国の近代児童文化の礎を築き、話し言葉による童話(口演童話)を開拓したことから“童話の父”と呼ばれています。また、“日本のアンデルセン”と呼ばれることもあり、そのいきさつを簡単に紹介させて頂きます。
 ☆“日本のアンデルセン”の云われ
 大正13(1924)年夏、デンマークの首都コペンハーゲンでボーイスカウトの世界大会が開催され、武彦は日本代表の副団長として少年たちを引率して現地を訪問しています。この時、世界的童話作家のアンデルセン(1805〜1875)の母国を訪問するとあって、武彦は喜びに満ちあふれていました。ところが、アンデルセンの墓を訪ねようと、デンマーク有数の観光ホテルで場所を尋ねるも、分からないという答えが…。さらに、オーデンセの街にある彼の生家が、他人の手に渡っていた時期があったようで、この現状に、武彦は大きな衝撃を受けています。
 一方、ボーイスカウト姿でウロウロする東洋人を奇妙に思ったのか、現地の新聞記者が武彦を取材しています。当然、彼は憤りを述べ、アンデルセンの没後50年を記念する祭典を来年、日本で開催することを紹介し、日本でもアンデルセンが子供たちに慕われているという現状を述べています。この模様は、デンマーク全国紙POLITIKEN新聞に掲載され、同国におけるアンデルセン再顕彰の呼び水になったようです。さらに、デンマーク一流の某漫画雑誌は、アンデルセンと武彦の対談シーンを描き、武彦を“日本のアンデルセン”と称したようです。そして大正14(1925)年10月、東京帝国劇場でアンデルセンお伽祭が催され、武彦と巌谷小波が中心となってこの企画を成功に導いています。その功績から、両名は翌年にデンマーク国王から勲章を授かっています。
  この勲章が、後世になってデンマーク人の目に留まります。昭和25(1950)年5月5日、武彦の童話活動50周年を祝う「日本童話祭」の催しが、出身地の大分県玖珠町で開催されます(この日は、第2回こどもの日。武彦は、こどもの日の提唱者とされている)。このとき、GHQの来賓として出席したのは九州民事部長のゼコブ・ゲリルド氏で、彼の母国はデンマークでした。武彦の胸に飾られた勲章を不思議に思ったゲリルド氏は、そのいきさつを尋ねたようで、知ると「あなたは母国の恩人です!」と感謝の気持ちを述べたようです。
  さて、話を今治に戻します。昭和28・29(1953・54)年、武彦はしまなみ海道の島々(大島・伯方島・大三島)で講演行脚の旅を行っています。宮窪にもやってきたようで、小・中学校で講演をし、住民から温かいもてなしを受けています。また、今治市波止浜沖の来島(来島城跡)も訪ねており、晩年に近づいてから先祖の歴史に興味を示し、伊予との交流に特別な思いを抱いたようです。武彦が亡くなるのは昭和35(1960)年のことで、80歳を越えても、精力的に全国の子供たちと交流を行い、まさに子供のために捧げた生涯でした。
 以上、厚澤ご夫妻との出会いを記念して、デンマークと今治との関係を連載記事にてお伝えしました。


広報担当 大成経凡