吉井勇没後50周年シンポに参加してA 〜伯方島応援歌〜


宮窪港の歌碑




有津の歌碑


有津港

 ◎吉井勇にとっての伯方島
  勇の人生の中で、伯方島を訪問した時期というのは、今でいう家庭的スキャンダル(不良華族事件)がもとで、妻と離縁。さらに、祖父の代から継承してきた伯爵の地位を剥奪されかねない危機への遭遇(隠居で事態解決)など、大きな岐路にたたされた“どん底の境地”にあったようです。伯方島を選んだのは、前年の歌行脚の感動がそうさせたと思われますが、一方で、流刑地の島で亡くなったナポレオン(52歳)と自らを重ね合わせようとしたのか、勇は歴史上の英雄を好む性癖がありました。
 滞在中に生み出した作品からは、死と生との狭間にあって葛藤する勇の心境がみてとれます。「死ぬといふことを思ふは堪えがたしもの書くを止め夜空仰ぐも」 また、盧溝橋事件(7/7)に端を発した戦争で、出征する島人を見て、死の境地を感じる一幕もあったのかも知れません。「防人を乗せたる船は島陰に消えなむとして煙かなしも」
 結果として、勇はここで再起を誓って歩みだすきっかけをつくり、伯方島を去って間もなく、再婚を果たしています。伯方島で過ごした2ヶ月余りを、人生の転換点(ターニング・ポイント)と見る評価が、今後進むものと思われます。
 ◎吉井勇再評価への道
 当シンポジウムを企画し、運営したのは、伯方島でまちづくり活動に励む青年グループ“ふるさと倶楽部”(馬越晴通会長)です。同倶楽部では、今治市への編入合併を機に、『ふるさと写真集』を発刊(平成19年3月)して、伯方町が歩んだ歴史を、古写真と解説文とによって普及啓発しています(頒布中)。この写真集の編纂に際し、同倶楽部の馬越健児氏が吉井勇の特集記事を書くにあたって、関係者への聴き取りや資料収集にあたったところ、大澤輝彦翁の後裔が所蔵する、勇からの書簡42通を発見します。
 これによって、勇が伯方島を去った後も、手紙を通じて島民との交流が続いていた事実が判明し、歌行脚時代から戦後にかけての、勇の年譜上の空白期を補完する重要な手掛かりとなったようです。その空白期を埋める論稿となったのが、細川光洋・馬越健児「吉井勇の伯方島 ―附〔翻刻新資料〕吉井勇書簡 伯方島・大澤輝彦宛 42通―」『高知工業高等専門学校学術紀要』第55号(2010)です。今回のシンポ参加者には、無料で配布されましたよ(^O^)/
 さて、勇が訪れたしまなみ海道のスポットには、いくつか歌碑が建てられています。今治市内では、玉川町木地の千疋峠(せんびきとうげ)・宮窪町宮窪の宮窪港・伯方町有津・大三島町宮浦の大山祇神社と宮浦港などに5基。来島海峡を詠んだ歌もありますから、糸山公園や波止浜港にも欲しいですね。ご当地の伯方島には、もっと多くの歌碑をつくるべきだと思います。そんな歌碑めぐりを通じて、しまなみ海道の自然・歴史・文化を楽しむツアーも、ありなのかも知れません。それに加えて、私たちは“もてなしの心”も大切にしないといけませんね
                               広報担当 大成経凡
 【掲載写真3点とキャプション】
 
 宮窪港の歌碑
 「ますらをの雄こころもちて能島なる荒神の瀬戸の潮鳴を聴く」
 
 有津の歌碑
 「人麿がむかしい往きし海を往きうまし伯方の島山を見む」
 
 
 有津港