吉井勇没後50周年シンポに参加して@(8/28)


船折瀬戸での船遊び




ありし日の大三島の除虫菊畑


光藤旅館

  先日、伯方島で開催された吉井勇没後50周年記念シンポジウムに参加しました(ふるさと倶楽部主催)。同シンポは、“放浪の歌人”や“伯爵歌人”の愛称で知られる吉井勇(明治19年生〜昭和35年没)の没後50年を記念したもので、会場の伯方公民館には約140名の参加者が集まる盛況ぶりでした。オープニングは、勇が作詞した『ゴンドラの唄』を地元の大正琴の婦人グループが演奏し、懐かしさから口ずさむご年輩者もいました。
  同シンポは当会の活動ではありませんが、芸予諸島に点在する勇の足跡(歌碑)を追えば、しまなみ海道が元気になる!そんな印象を受けたしだいです。勇の歌を口ずさむと、しまなみ海道のありし日の情景が思い浮かび、これは勇が私たちに残してくれた知的財産のような気がしてきます。
  これは、伯方島だけの取り組みで終わらせてはいけません。私たち近隣の島々・地域もスクラムを組んで応援していかないといけませんね。
 ◎なぜ、伯方島で吉井勇シンポなの?
  で、気になる伯方島と勇との関係ですが、基調講演を行った細川光洋先生(高知工業高等学校准教授)の講演レジュメ「吉井勇略年譜」や近年発表された論稿「吉井勇の伯方島」などによれば、勇は昭和11(1926)年に四国・中国・九州・瀬戸内を旅する大歌行脚を行った際、同年5月6〜9日に同島を訪れています。地元篤志家(とくしか)の案内で、今流にいえば船折瀬戸(ふなおれ・ふなおり)や鼻栗瀬戸(はなぐり)のクルージングを楽しんだようで、激しい潮流や島から島への船旅に感銘を受けています。この時の作品が「瀬戸の海の島より島へわたりゆく船の遍路のおもしろきかな」「伯方島にわが船泊てぬさすらひのこころの港ここにもとめむ」などです。当時は、芸予諸島の島肌が除虫菊の花で彩られる時季とも重なり、海上から眺める“白いじゅんたんの丘”の光景にも感銘を受けたようです。
  そして勇は、翌年の昭和12(1927)年にも伯方島を訪問(当時51歳)。この時は、どっしり腰を落ち着けて『短歌文学全集』吉井勇篇の作品づくりなどに励んだようで、有津(あろうづ)の光藤旅館を定宿とし、6月16日〜9月2日まで滞在しています(現在も営業。勇滞在時の宿帳も現存)。滞在中、色々と世話をしたのが、短歌新聞社・愛媛支局の和田義一と地元の名望家(めいぼうか)・大澤輝彦でした。大澤は、前年に続いて地元住民を代表して勇のバックアップに努めています。宿代については、揮毫(きごう)の頒布(はんぷ)会を行ったりして工面にあたったようです。「除蟲菊の花の盛りも過ぎにけりさびしきかなや伯方島山(しまやま)」 「とどろとどろ渦の大潮鳴りどよみ船ゆきなやむ船折の瀬戸」
 ただ、勇の滞在期間中に盧溝橋(ろこうきょう)事件が勃発し、これが日中戦争の導火線となります。有津という小さな集落からも、若者が兵隊に次々ととられ、戦地へ向かう光景は、港で行う盛大な見送りとなって勇の目にも焼きついたようです。「有津の石工木浦の船乗も兵に召されて夏去りにけり」                   
 【つづく】  広報担当 大成経凡
 【掲載写真3点】
 
 船折瀬戸(明神鼻)での船遊び
  左から4人目が吉井勇
 【写真/大澤捷子さん所蔵】
 
 
 ありし日の大三島の除虫菊畑
 
 
 光藤旅館