水軍レースの由来A 〜日本一の水軍レースを目指して〜


ふるさと愛媛創造賞の楯




初代・武吉丸(村上水軍博物館屋外展示場)


2代目・武吉丸


初代・武吉丸(船首の水押の形が2代目と違います)

○国民文化祭「海のフェスティバル」開催
  大河ドラマを呼ぶ会では、平成2(1990)年秋に開催される国民文化祭「海のフェスティバル」で、水軍レースの実施を提唱!ふるさと創生1億円を使った水軍船の復元を期待しましたが、5町の足並みがそろわず、夢はいったんついえます。しかし、宮窪町単独でも実施しようと、ふるさと会のメンバーは町長に直談判。その熱意に折れる形で、宮窪町が2隻の船を同祭典に合わせて建造することになりました。
  ただ、町の予算をつかって、もしも祭典が失敗するようなことになれば、水軍ふるさと会は解散を余儀なくされます。彼らの持ち味は、地域史へのコダワリと熱意しかありません。メンバーは、小佐田哲男氏(海事史/東京大学名誉教授)に、時代考証に基づいた設計図面の作製を依頼。船の建造は、伯方島伊方の和船大工・渡辺忠一氏に依頼します。これによって、水軍の機動力として海原を駆け巡った小早船(こばやぶね)が復元されます。また、レースの方法は、かつて宮窪にあった押し船競漕の聴き取りを古老から行い、コダワリをもたせた祭典になるよう創意工夫を凝らします。“櫂”(かい)をつかった競漕が神事なら、水軍レースは和船文化の伝統を継承した“櫓”(ろ)漕ぎとすることにしました。
 宮窪港沖を舞台に開催された祭典では、小早船2隻の競漕に、長崎ペーロン・沖縄ハーリー・土佐室戸漁船らの共演が見られ、圧巻だったのが宮窪漁協の63隻の漁船が、毛利水軍が織田水軍を破った木津川口海戦(第1次)を彷彿とさせる“鶴翼の陣形”を披露。観客の間からは歓声があがり、その感動は今も宮窪住民の間では語り草となっています。
○第1回水軍レースの開幕
 祭典で手ごたえをつかんだふるさと会では、翌年の平成3(1991)年8月、宮窪の納涼祭で第1回「能島水軍レース」を開催し、15チームの参加を得ることができました。同4年には第2回が行われ、水軍レースが地元住民から受け入れられるようになりました。
 一方、平成4(1992)年に大河ドラマを呼ぶ会は解散となり、ふるさと会では次の目標を“日本一の水軍レース”に定めます。「水軍レースは、地域に根ざしたスポーツイベントであり、継続していけば観光資源としてもPRできる。船の建造などを各町に協力してもらい、行政と一体となった取り組みで事業を成功させたい」(矢野久志氏談)と。
 この思いが実り、吉海町と伯方町が1隻ずつ小早船を建造し(合計4隻)、3町共催による第1回「水軍レース」が平成5(1993)年7月に開幕することとなりました。これが、現在の水軍レースの初回となります。当初は、レース会場を3町持ち回りで計画していましたが、1度だけ伯方町で開催した以外は、宮窪町で行われています。市町村合併で3町がなくなって以降は、行政の全面的な支援が得られにくくなり(予算も削減)、ボランティアによる協力が不可欠となっています。
  平成9(1997)年度、水軍レースの開催等による魅力ある地域づくり活動が認められ、水軍ふるさと会に“ふるさと愛媛創造賞”が愛媛県から授けられました。ふるさと会の思いは、現在、当会に受け継がれています。
 


広報担当 大成