念仏山を知ろう!【後編】


念仏山(念仏ヶ嶽)



 @念仏山の由来は?
  ネット検索をしてみると、他県にも同じ名前の山が幾つか存在し、山の頂上で村人が念仏を唱える念仏講や弘法大師にちなんだ伝承にもとづいています。大島の場合は、どうなのでしょう。『角川日本地名大辞典』(角川書店/昭和56年)の愛媛県版によると、「村が高潮に襲われて大勢の溺死者を出した時、村人はこの山に集まり、山頂の松に鐘を掛け、それを叩いて死者の霊を慰め、海神の怒りを解いたところから山名になった」とのことです。この伝承については、『吉海町誌』(吉海町/平成13年/P766〜67)と『宮窪町誌』(宮窪町/平成6年/P388)にも記され、「大津波がひくよう、頂上に集まった人々が念仏を唱え、松に掛けて打ち鳴らした鐘を“鐘かけ松”と称するようになった」と記しています。
 『吉海町誌』によれば、この松の大樹は昭和の初めごろまであったようで、展望台の位置には大岩もあったようです。この大岩は、整地する際に取り除かれたようで、松の大樹も、現在は確認することができませんでした。もしかすると、その大岩は、古代の巨石信仰にちなんだもので、その信仰がやがて仏教の“念仏”に結びついたような印象を受けました。現在、頂上にあるのは、展望台と桜の木々とアンテナ塔だけです(^^ゞ


泊小学校跡の旧正門


念仏山中腹にある大山牧場


念仏山中腹の丁場

 A本当の名前は、念仏ヶ岳(嶽)? それとも…。
  吉海・宮窪の両町にまたがる山なので、麓集落の住民、それぞれに思い入れがあります。かつては、子供たちの遠足コースにもなっていたようです。
 「念仏が岳 山ふもと 柳の大木 校庭に♪」これは、かつて吉海町にあった町立泊(とまり)小学校・校歌の1番の歌詞です。泊地区の背後にそびえるのが念仏山で、同地区では“ねんぶつがたけ”と称しています。すると気になるのは、ひと昔前の記録には、山名がどのように記されているのかということ。まずは、江戸時代に遡ってみることにしましょう。
 かつて大島には、今治藩のお殿様が鹿狩りによく来ていましたので、そちららの記録から。鹿や猪を獲ようと思えば、山へ入らなければなりませんので(^^ゞ 今治藩家老・服部家の記録をもとに編集された『今治拾遺』(今治市/昭和62年)に、その記述があります。最初の記録は、2代藩主・松平定時の代、延宝4(1676)年正月のことです。「朝6時に今治を出船した殿様一行は、下田水より大島へ上陸。初日は、名村の笹山を手始めに亀老山へ移動。2日目は、名村より仁江のマソ山まで。3日目は大山(福田大山)より尾金山まで。4日目はカヽラ山より大戸まで。最終日は名村の高龍寺山で料理を召し上がり、名駒から乗船して夕方八半時に今治へ到着し、帰城…」といった内容です。多くの島民も駆り出されたようで、気になる獲物の成果は、猪24疋・鹿44疋だった模様。で、肝心の山名ですが、念仏山がでてきません(>_<)
 そこで、再び前述の地名辞典に戻りますが、「念仏山とは、大島を南北に縦断する山脈中の主峰で、西方一帯の山地を“大山”(おおやま)と総称し、最高点を指す。念仏ヶ嶽ともいう」と。なるほど!そうなると、大山の頂上が“念仏ヶ嶽”ということになりますね。鹿狩の記録に登場する「大山」が、現代の念仏山を意味することになります。では、この地名辞典のもとになった明治初年の資料を次に紹介します。


大山村役場跡の造成石垣

 B山名が、かつて村名にも使われていた!
  明治13(1880)年10月に作成された、宮窪村の『地誌取調書』に、念仏山の由来を記す興味深い記述があります。「大山高さ130丈麓回り1里13町、村の西方にあり、嶺上より是を分ち、外部西は本郡福田村および泊村に属す、北は本郡余所国村に界す、内部東南は本村に属す、絶頂を号して念仏ヶ嶽というところに鐘掛松という樹木あり、是を舟路の目標とす…」と(現代語訳にて表記)。
  大山の麓集落の人々にとっては、この山はシンボルとして印象づけられたのでしょう。明治23(1890)年3月末、福田・泊・田浦・早川・余所国の5ヶ村が合併し、大山村が誕生。近世から近代への幕開けを告げる、明治の大合併です。役場は、泊地区に置かれました。しかし、昭和の町制施行で、昭和27(1952)年8月に宮窪町、同29(1954)年に吉海町が誕生するにあたって、同29年3月末に福田・泊・田浦は吉海町へ、早川・余所国は宮窪町へ編入されることになり、大山村は二分されて消滅してしまいます。山の総称であった大山が、念仏山にとって代わられるのは、昭和の大合併以後のことなのでしょうか。
 今日となっては、頂上が巨石信仰の古代遺跡だったのか、あるいは仏教に関連した中世遺跡だったのかは確認しづらいものがあります。しかし、頂上の鐘掛松が、海上航行者の針路変更などの目安になっていたのは興味深い史実ですね。また、前述の『今治拾遺』によれば、江戸時代初期以降、大島を襲った死者を生み出すほどの津波の記録はなく、もしかすると台風による高潮の被害を意味しているのでしょうか。念仏山には、目に見えない歴史背景や伝承に多くの魅力が詰まっているのかもしれません。


広報担当 大成